雪の日

   車の外では雪がちらつき始めている。朝のニュースの天気予報では夕方から降雪と言っていたがこんな時に予報が当たらなくてもいいではないかと思う。

 わたしは今高速道路出口脇の待機スペースに車を停めて電話を待っている。ドアのすぐわきにはネクスコの職員さんがひとり立っていてちらつき始めた雪を恨めし気に見上げてしかしすぐにわたしの方へ視線を戻した。正確にはわたしの携帯電話にだろうか。

 女が1人若い男性を侍らせていると思えば格好もつくだろうけれど生憎そんな情緒のある話ではない。なぜならわたしは高速道路を無賃利用してこんなことになっているのだ。むろんわざとではない。

 今日は遠方への出張で朝から車を運転していた。不運は前日から始まった。今日の出張自体は前々から決まっていたので、事前に会社の社用車も一日予約していたのだ。しかし前日、つまり昨日その社用車が事故にあってしまった。わたしも知っている同僚が運転して出張に出ていたのだが、信号待ちの最中に後ろから追突された。信号待ちをしていた3台の最後尾に停車していたところを追突されてしまったので玉突き事故になってしまったのだ。幸いその同僚に怪我はなく大事に至らずに済んだが車の方はそうもいかなかった。フロントもリアバンパーも無残な姿で自走してきた車はすぐに修理業者に引き渡されて全治3週間の修理中だ。不運は重なるものでその時点で他に今日使用できる社用車はなく、わたしの自家用車も修理中で返却は明日土曜日の予定だった。先週の日曜日に修理に出したのだけれど普段はバス通勤だし次の週末には修理が終わって返ってくるというので代車を頼んでいなかったことも失敗した。出張を取りやめることも考えたが訪問先のひとつからどうしても今日来てほしい旨頼まれていたこともあって仕方なしに会社の総務にレンタカーを頼んで手配してもらったのだった。

 いつもの社用車であればETCで高速道路を利用する。もちろんこのレンタカーにもETCの車載器はついている。社用のカードを車載器に入れれば使えるだろう。そのつもりだったが肝心のETCカードの方が不具合で総務が再発行を依頼していた。自分用のETCカードは家に置いてきていたため仕方なく一般レーンから高速道路を利用した。行きも帰りもだ。

 特に何事もなく出張先での仕事を終えて最寄りのインターチェンジから高速道路へ入場し途中のサービスエリアで休憩もすることなく会社近くの料金所まで帰ってきた。車を停止させ通行券を職員さんに渡しさて精算という段になって財布がなかなか見つからない。そんなはずはないだろうと助手席のバッグの中を漁り始めるがなかなか出てこない。そうしているうちに見かねた職員さんから「とりあえず待機スペースへ回ってください。別の者が対応しますので」と言われてしまった。バックミラーを確認すると後ろには順番待ちの車が停車していて運転手がまだかまだかといいそうな視線をわたしに送っている。

 わたしは恥ずかしい気持ちを押しこらえながら「すみません」と謝り、ついでに心の中では後ろの運転手さんにも謝りながらゆっくりと車を待機スペースに移動させた。

 料金所脇の建物の中から職員さんが来る間もバッグの中や車内を探すがなかなか見つからない。

「財布を忘れたんですか。」

 職員さんはそう質問したがそんなはずはない。朝も一般レーンから入場して出張先で現金精算をしたのだから。そう言おうとして思い出した。

「途中に寄ったコンビニに忘れてきたかもしれません…。」

 最後の訪問先を後にした後お手洗いを借りにコンビニに立ち寄った。別に何かを買うつもりはなかったけれどお手洗いを借りるだけなのも気が引けて財布も手にして車から降りたのだった。その時に財布だけを忘れてきたのかもしれない。

 うろ覚えのコンビニの場所をスマートフォンの地図アプリで検索して電話をかけてみると対応してくれた店員さんはとりあえず探して折り返し電話をくれるということだった。その電話を待っているのだ。

 

 相手からの電話を待っている時間とはすなわち何もすることができない時間なのだということを今ほど実感することはなかった。いつもの空き時間なら小説を読んだりスマートフォンをいじったりして時間をつぶすのだけれど車の外で人を待たせながらそんなことをできるほどわたしは図々しくはない。いっそそれくらいの性格だったのならもっと気が楽だったろうに。

 ふと職員さんを見ると目が合ってしまった。冬場に道路で働くだけあって防寒ジャケットを着て手袋をつけているけれどそれでも寒いものは寒いのだろう、少し体を震わせている。車内で待ってもらおうかとも思うけれどそれはお互い気まずいだろう。思わず、

「すいません」

と口にして頭を下げる。

 「いえ、これが仕事ですから。それよりも財布あるといいですね。」

 困ったような笑顔で応えてくれるその気遣いが申し訳なくて彼から目を背けてしまう。まったく、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。

 今日はわたしの誕生日だから休憩もせずに早めに帰ってきたというのにまったく嫌になる。一人暮らしの家に帰っても、ケーキが用意してあるわけでもおめでとうの言葉をかけるのに待ってくれる人もいないのだけれど、それでも今日は残業をせずに帰るつもりでいたのに。

 思い返すとこれまでこんなことばかりだ。友人の結婚式の当日には祝儀袋を間違えるし、図書館に貸し出し予約をしていた本が届いたのは長期の旅行に出発する当日だし、出かけた先では家の鍵を忘れてくる。こんな間抜けな女には腹が立って仕方がない、その腹をたてるのはよりによって自分自身に対してなのだから尚更たちが悪い。どうしてこんな星の下に生まれてしまったのだろうか。

 そう思っていると手元で携帯電話が震えだした。表示される番号は先ほどかけたコンビニのもの。すぐさま出ると先ほど対応してくれた店員さんがそれらしき財布を見つけたとのこと。とりあえず口頭で中身を確認すると財布に入っていた保険証でわたしのものだと確認できた。すぐ取りに行くことができないのでお店で保管してもらうことをお願いすると快く承知してくれた。

 「財布あったみたいで良かったですね。利用料金を後日払っていただく手続きをしますから、運転免許証と車検証を持って事務所まで来てください。」

 電話を切るのを待って職員さんが話しかけてくれた。

 「はい、ご心配をおかけしました。」

 言われたとおり免許証と車検証を持って車から出て職員さんについていこうとする。するとまた携帯電話が震えだした。また電話かとも思うけれどすぐに止まったのでおそらくメールだろう。気になって画面を開いてみると母からだった。

『誕生日おめでとう。そっちは雪らしいけれど大丈夫ですか?身体には気をつけて。』

 たったこれだけの短い文章なのに読んだ途端にそれまでの暗くて自分を虐めていた気持ちがだんだん晴れていく。多分どんな人だろうと自分を祝福してくれる言葉には救われるのだろう。そしてこの使い古された短い言葉はどんな格言や崇高な文句にも負けない祝福の魔法を持っている。「誕生日おめでとう」

 高速道路の事務所に入り必要書類を渡し後日精算の書類を発行してもらうまで待っていると窓の外ではいよいよ雪が本格的に降り始めてしまった。吹雪く前に会社に戻れるかと心配していると名前を呼ばれ先ほどの職員さんから料金の後日精算の書類を渡された。

 「今日から7日以内に精算してください。精算場所はどこの料金所でも大丈夫です。」

 そう言うとさっき渡した免許証と車検証も返してくれた。その時にふと免許証に目を落としていた彼が顔を上げて笑顔になった。

 「それからお誕生日おめでとうございます。災難でしたけれど良いことがありますよ。」

 書類や車検証と一緒に笑顔と祝福をもらったわたしは嬉しくなって、

「ありがとうございます」

と精一杯の笑顔で応えてお辞儀をして事務所から車に帰る。冷え込み始めた冬の夜はしんしんと雪が強さを増している。その中でもわたしの中は温もりでいっぱいだった。