2人の遊戯

 鍋の中で油がぱちぱち跳ねる音がしている。油の温度を確認するためにたらした小麦粉が音を立てて浮かんできた。温度はこんなものだろう。

 醤油と酒とショウガで下味をつけた鶏肉は既に白い小麦粉にまみれている。それをひとつずつ適温になった油の中に入れて揚げていく。出かける前に彼女が注いでくれたビールを飲みながら、徐々にきつね色に変わっていく鶏肉の様子を見ているとお腹が空いてくる。

 「ただいま。」

 彼女が帰ってきた。買い物バッグをあけて牛乳やら豆腐やらを冷蔵庫に入れていく。

 「そういえばスーパーからの帰り道に駅前の通りを通ったらビルのモニターで美術館の企画展の宣伝をしていたわ。確かロマノフ朝の秘宝展だって。あなた好きでしょこういうの。

 「まあね。そうだ、冷蔵庫の中にレタスがあるからそれでサラダを作ってよ。」

 そう言って揚げ物を続ける。ふとズボンのポケットの中に忍ばせた小瓶に手を触れる。大丈夫だきちんとある。彼女の命を終わらせる凶器はきちんと持っている。

 「わかった。それにしてもロマノフ朝の秘宝って何かしら。モニターでは卵のようなものが映っていたけれど。」

 「それはインペリアル・イースター・エッグじゃないかい。皇帝が皇后のために作らせて毎年贈っていたそうだよ。確か全部で50個作らせたそうだけれど革命の余波でロシア国外に散逸してしまってそのうちいくつかは未だに行方知れずらしい。」

 唐揚げを油の中からお皿に取りながらふと僕はなぜ彼女を殺そうとしているのか思い出そうとした。最初のきっかけは何だったろうか、今はもう思い出せない。それでもこの毒薬を手に入れたのは昨日今日のことではないはずだ。手に入れたときは確かに何か理由を持っていたと思う。自殺用だったのだろうか。それも今は思い出せない。

 「ロシア革命か。家族全員が処刑されてしまうなんて皇帝一家も不運だったわよね。一般市民の家庭に生まれていればそんなことにならずに済んだのに。」

 「まあ、あの時代に一般市民として生まれていたとしても幸せだったかどうかはわからないよ。帝政末期から革命と戦争の時代だったわけだし。でもそうだね、一家そろって処刑なんて運命にはならなかったかもしれない。人間は生まれる場所や時代を選べない。その不幸は何も貧しい人にとってのこととは限らないのかもしれないね。

 彼女はシンクでレタスを洗いざるにあげて水をきっていく。ボウルの中に塩コショウを振りそこへレタスをちぎって入れていく。そしてレモン果汁とオリーブオイルを注ぎ菜箸で混ぜ始める。彼女はドレッシングの類をあまり使わない。

 味見してみてとレタスをひと切れ差し出してくる。一口食べて少し苦みが強いレタスだなと思うがいいんじゃないかいと応える。

 「ロマノフ朝と言えば司馬遼太郎が小説の中で最後の皇帝ニコライ二世のことをさんざんこき下ろしていたっけ。失政の責任は統治者ひとりの責任に帰される。なんだか可哀そうだね。」

 「でも家族に取り入った男の言いなりになって国を混乱させてしまうなんて非難されても仕方ないでしょ。だいいちラスプーチンなんて妖怪の類よ。毒を飲んでも死なないなんて。そんな妖怪を取り巻きに持つ方もどうかしてるわ。」

 一瞬ドキリとするけれども顔は平静を保つ。

 「けれども国が傾くのはひとりの責任ではないんじゃないかな。国が乱れたり滅びたりするのにはいろいろな原因があるわけで、誰かひとりや取り巻きの責任だけではないと思うよ。そんな小さな責任で傾くほど国家とか組織って簡単なものじゃないよ。」

 唐揚げを盛った皿をテーブルへ運ぶ。すこし頭がぼやけてきて足どりが重い気がするけれどこれもビールのせいだろうな。人殺しなんて酔っぱらっていないと実行できない。

こんな他愛もない会話を繰り返す生活をずっとしてきたけれどどうして毒を手に入れたのだろうか。誰に何のためにかはもう思い出せないけれど、手に入れた時は本当に使う気でいたのだろう。手に入れた理由はたぶんほんの些細なことではないだろうか。「魔が差した」というものだ。それからその凶器は使われずにずっとこの家の中で隠されていた。僕が寝室でそれを見つけるまでは。

 それはついこの間のことだった。手にするとそれが命を奪うものだということはすぐわかった。手にした途端どうしようもなく使いたくなった。だからたぶん僕が彼女を殺そうとするのはただ単に殺したいからだ。それ以上の理由はありはしない。たぶん見つけたのが古い映画のVHSやDVDだったとしたらそれを彼女と一緒に観ただろうし。レコードやCDだったとしたら一緒に聴いただろう。

 キッチンの彼女の隣に戻ってくるとグラスをあおり残っていたビールを一気に飲み干す。黒ビールだったから飲んでいるときは気付かなかったけれどグラスの底に澱のようなものが少し残っている。空き缶の底を見てみると賞味期限がわずかにすぎている。これまであまり気にしてこなかったけれどやはりビールの賞味期限も気にした方がよさそうだ。

 「ちょっとまだ酔っぱらわないでよ。」

 「大丈夫だよ。まだ一杯しか飲んでいないんだから。」

 二杯目のビールと作り置きのおかずを取り出そうと冷蔵庫の扉を開ける。お目当てのビール缶を一本と野菜のおひたしや漬物が入っている容器をいくつか取り出すと冷蔵庫の中に新参者が鎮座していることに気づいた。

 「あれ、デザートを買ってくるなら二人分買ってきてよ。」

 「ああ、ごめん忘れていた。」サラダのボウルと小皿をテーブルに運んでいる彼女の顔はここからは見えない。

 まあいいかと思い缶ビールの賞味期限を見てみると今度は大丈夫だ。プルタブをあけグラスには注がずにそのまま飲む。

 「やっぱり黒ビールは合わないのかなあ。」

 さっきほどではないけれどいつものビールより苦みが強い気がする。

 「じゃあわたしは普通のラガーにするわ。」

 そう言って彼女は自分も冷蔵庫から缶ビールを取り出してシンクの隣に置く。彼女はビールを飲むとき必ず常温に戻してから飲む。ラガーでもエールでも黒ビールでも何でもだ。

 「お皿とグラスをとってくれない。漬物とかを盛り付けるから。」

 ぼくは彼女を背にして食器棚から小皿をいくつかとグラスをひとつと取り出して小皿の方は彼女に渡す。渡すときに上手く渡せず落としそうになった。彼女は気にした様子もなく「本当に酔っぱらわないでよ」と言ったけれど。僕はひやひやした。やはり人を殺すということへの恐怖だろうか。

 「それにしてどうしてセロリでお浸しなんか作ったのかしら。」

 「セロリが安かったからだね。」

 「わたしセロリの青臭い匂いが苦手なんだけれどこのお浸しはあまり気にならない。たぶんお酢と醤油のおかげかしら。」

 「たぶんそうだろうね。僕もあの独特の匂いは好きじゃないからどうしようかと思ったよ。あと味噌とか麹でつけたりしても青臭さは軽くなるね。」

 そうなんだとあまり関心もなさそうに彼女はセロリのお浸しを小皿に盛り付けていく。

 「そういえばセロリの香りの成分はパセリと同じそうよ。それでもって昔は薬用として重宝されたんですって。あなた知ってる?」

 彼女の瞳が面白そうに輝く。僕は知らないなあと誤魔化す。パセリやセロリ香りの主成分はアピオール。その古代から知られる薬効は中絶。日常生活で一般的に摂取する量なら問題はないだろうけれど女性の目の前で口にする内容じゃない。この様子じゃ彼女は知っているだろう。それで僕をからかっているわけか。

 彼女が小皿を手にしてテーブルに向かうとポケットの中から容器を取り出してその中身を全部グラスに入れビールを注ぐ。小瓶の蓋はうまくあけることができずプルタブを起こすのにも手間取ったけれど何とかすべてを終わらせることができた。

 お盆に自分の分のビールも載せて運ぼうとすると足が少しもつれて転びそうになった。幸い戻ってきた彼女がお盆を持ってくれてグラスやビールが落ちたりこぼれたりすることはなかった。僕はありがとうとだけ言って彼女の後に続いていく。

 調べたところではこの毒は即効性らしい。彼女の死に顔を見るのは辛いだろうけれど自分の行動の結果くらいは見届けないといけないだろう。

 テーブルの椅子に座るとなんだか疲れがどっと出てきたような気がする。もう二度とここから立ち上がれないような全身が重くなったような気分だ。

 ふと彼女の方を見ると本棚に近寄って何かを探している。探し物はすぐに見つかったようで一冊の本を手にして戻ってくる。手にしていたのは「ソクラテスの弁明」だった。

 「わたし、この話が嫌いなのよ。ソクラテスは裁判で死刑を宣告された後牢屋番にお金を渡して逃げることもできたのよ。アテナイから他国に亡命することだってできた。それなのに、悪法もまた法なりとか言って毒をあおったの。その信念は立派だと思うけれどやっぱり死んだら何にもならないと思うのよね。」

 西洋哲学者を半分くらい敵に回すような言葉だね、と言おうとしたけれどうまく言葉が出てこない。

 彼女がグラスをかかげたので僕もそれに倣おうと持っていた缶ビールをかかげる。けれども手から力が抜けて缶ビールを落としてしまった。

 瞼がだんだんと重くなってきて平衡感覚がなくなってくる。椅子からずり落ちているんだなと気付いたけれどその感覚はすごくゆっくりとしたものだった。

 床に打ち付けられ衝撃を全身が走るけれどその感覚もすごく鈍い。

 彼女の声が聞こえる。

 「ソクラテスが飲んだのはドクニンジンの毒らしいわ。ドクゼリという説もあるらしいけれど。何の毒だとしても死んだ人には関係ないことよね何にしても死の直後まで弟子たちにこんな説教をしているのだからたいしたものだわ。死ぬこと自体に恐怖はなかったのかしら。」

 目をあけると視界ぎりぎりにテーブルの向こう側にいる彼女が見えた。彼女も僕を見ていた。

 「でもわたしはそんなのごめんだわ。死ぬのは嫌だし殺されるのはもっと嫌。」

 ああそうだねと口にしようとするけれど口が開かない。口だけでなく体中が化石になったみたいに動かない。ドクニンジンやドクゼリの毒の成分は神経毒のコニイン。確かビールに入れて殺人に使った小説があったなと他愛もないことを思い出す。

 彼女の目を見ると嘲笑とも哀れみともつかない微笑が浮かんでいた。